現代の日本で生きている方で、「生きづらさ」を感じていない方がどれだけいるのだろうか。そしてその理由をわかっている方がどれだけいるのだろうか?

生まれてこの方生きづらさを感じ続けてきたNITARIだが、最近になってその単純な理由がわかってきたので、ご説明しようと思う。

あなたが「生きづらさ」を感じている理由

今年の夏、私はふと思い立って、いきなり2か月間イタリアへ渡航した(ほぼ無計画で2か月間、イタリアのローマに滞在した結果)。急に渡航したにもかかわらず、私はほとんど一回も日本に帰りたいとは思わなかった。何の違和感もなく、ローマの空気と同化した。

滞在を終えて日本に帰ってきたときに一番に感じたのは、日本人の正確性に対する息苦しさだった。

電車の時刻表から見る、日本の細やかさ

たとえば、首都圏を例に電車の時刻表について話をしたい。
首都圏の電車にはかなり正確な時刻表があり、少しでも電車が遅れると電光掲示板に表示が出るほど、その正確さは徹底されている。首都圏ではそれはデフォルトであり、そうでない路線は私が知る限り存在しない。

そして、例えば人身事故などがあった場合、電車の遅れ(見合せ後の遅れ)は、たとえば「25分の遅れ」とかいう表示になる。しかし、全ての電車が25分ごと遅れていたら、もはやそれは遅れでもなんでもないはずだ。

欧州では市内の電車やバスは、基本的には時刻が書いていない。時刻表がそもそも存在するかどうかも分からないことが多い(もちろん場所にもよるが)。

じゃあどうなってるのかというと、電光掲示板には「3min」というような、「あと何分」で電車が来るかという表示が表れるのだ。

もちろんそれは長距離電車ではなくあくまでも市内電車での話だが、この「絶対時刻」と「相対時刻」は、似ているようでこれは全然体質の違う考え方だ。

たとえば、私が日頃利用しているJR横浜線は、横浜駅からの直通電車が非常に少ない。したがって、横浜駅からの帰りではなるべく乗り継ぎのない電車に乗ろうと思って、時刻表をかなり気にしてしまうことがある。

これがもし、「相対時刻」だったらどうだろう。私は帰宅するのに、先ずはホームに立ってみなければ何処行きの電車が次に来るのか分からないので、とりあえずのんびり駅まで行って、そこから帰る電車を決めるだろう。

もちろん、時刻がわかっていたほうが好きな時間に乗れるからいい、という意見もあるだろうが、そもそもその考え自体が、「絶対時間制」の社会を知っているから思うことであって、最初から「あと何分」の「相対時間制」だったら思いもよらないことではないかと思うわけだ。

日本における「決まりごと」があなたを窮屈にする

それは何も電車だけの問題ではない。実は社会に目を向けると、あらゆる点で日本の窮屈さを感じる場面はあるのだ。

そもそも、今の日本にはフリーランスで活動をする事に関する寛容性はほとんどない。

今でも「正社員で働く」事を重んじる傾向は強いし、そういう世の中にいて「正社員」として働いている方にとっては、例えば仕事が辛くて辞めるにせよ「正社員転職ありき」でしか物事を考えられず、そうなるとなかなか退職に踏み切れない。

一方で欧州を観てみると、そもそも「正規雇用神話」がないのである。

仕事はいつでも変えることができるし、性別はもちろん、採用側が年齢や経歴(職歴というよりは、前職をやめた理由など)を問うことすらないこともあるようだ。新卒という考え方もないし、例えば半年とか休んで職務経歴書に空白があっても拘られない。

日本ではそういうことがあると、「この期間は何をしていましたか?」とか必ず聞かれる。

私なんかは旅行したり思い切りニートを楽しんだりしてましたって感じだが、そういうことを言うと不利なので、「資格の勉強」といったり、そもそも空白を作らない方も多い。

日本も、もしも欧州のように割りと多くの人が抵抗なく転職や退職を繰り返す社会だったら、多分世の中の多くの人がもっとカジュアルに仕事を捉えることができると思うのだ。

もちろん、だからといって働き口が増えるわけではないので、結局正社員として仕事を見つけるのは難しいかもしれない。

しかし「正社員として働く」ことがデフォルトでない世界であれば、年齢を重ねたとでも非正規で働いてもいいわけだし、いろんな生き方があるわけだ。

そもそも、「終身雇用」というものにしても同じで、現代の一度どこかの会社に就職したら、もう二度と転職しないという考え方がどれだけ重要だろう。

当然一生転職しないと思って働く人も多くいると思うが、好むと好まざるとかかわらず会社の経営状態によっては転職を余儀なくされる場合も十分に考えられる。

その現在において、転職しても正社員で働くことにこそ意味があると考えるのは非常に短絡的だし、人々の自由を大きく奪っている。

もちろん、転職したくならないような魅力的な職場であればまだしも、そういうわけでもないのに、とにかく「安定」とか「老後」のために今を犠牲にしがちではないだろうか。そもそも今は正社員でもそんなに安定していないわけだし。

じゃあなんで未だに正社員こそが安定の証だと思っているかというと、皆がそう思っているからだ。ここは特に統計を取ったわけではないので私の予想に過ぎないのであはあるが。

生き方の多様性もまだまだ受け入れられない日本

ローマで一番大きな広場であるナヴォーナ広場に、ある日私は遅くまで座っていた。ローマに滞在していた2か月間の多くは、基本的には午前中に外出し午後にはアパートに戻るというサイクルで活動をしていたのだが、その日は夜景の写真を撮ろうと思って夕方に出かけて、日没までを広場で待っていた。

夏だったので、日没は9時近くだった。8時前からベンチで座って周りを見ていると、いろんな大人たちがいろんな芸をしてお金を稼いでいるのを見た。

その中に、広場のカフェレストランのテラス席の前にスピーカーで音楽を流し、歌を歌ってタップを踏む、40歳くらいの女性の姿を見た。

別にそんなに歌もうまくないしタップもうまくなかった。しかし気持ちよさそうに3曲ほど歌を歌った後、彼女はか籠だか帽子をもってテラス席を回って金を徴収していた。ほとんどその籠に金を入れる者はいなかった。

欧州ではこういう感じで金を稼ぐ人は非常に多い。私はベンチでそれを見ていたので金を集めに来なかったのだが、特に電車などでもそういう商売の方はよく見かける。結構うざったかったりする。

で、ディナー中の客は逆に鬱陶しいと思ってそうだと思ったのだが、でもそういう人は彼女以外にもたくさんいるのだ。別に全く珍しい光景ではない。

一体彼女は普段何をしている人なのか?たぶんかなり金のない女性なんだろうとは思う。当然結婚もしてないだろう。昼は何か別の仕事をして夜は格子て稼いでいるんだろうなと思って、まあ人それぞれだよなって思った。

しかし、これがたぶん日本だったらそうはいかないと思う。ってゆーか、そういう人は見たことがない。人の目ばかりを気にしている日本人、そんな大胆なことができるわけがないのだ。

日本における、はぐれものとして生きるマインド

私は小さいころから非常に変わり者だったので、結構いじめられたりもした。もしも、小さいころから多民族国家で、自己主張の強い私みたいな人間でもそんなに目立たないような国だったら、私の幼少時代は全く違っただろうと思う。

仕事ができないとか、我慢ができないとか、協調性がないとか、コミュニケーションが苦手とかそういう事で悩んでいる人っていうのは、仕事ができて当たり前、我慢が出来て当たり前、協調して当たり前、高コミュ当たり前っていう、日本の歴史が生み出した既成概念にとらわれているに過ぎない。

それは別に、そもそも人間が当たり前に持っている本能でもなんでもなく、ただ単に後から作り出した「伝統」に過ぎないのである。

まとめ

だからといって社会は変わらない。
世の中はこれまでと同じようにこれからも転職が難しいし、日本人はおおむね勤勉が当たり前だろうし多様性を受け入れがたいだろう。正社員でなければ価値がないと言われれない時代もすぐには訪れない。

しかし、マインド一つの問題で、世の中が変わらなくても自分を変えることはできると思う。まずは、「生きづらいのは自分のせい」という考え方を捨てて、「生きづらいのは社会のせい」って考えてみたらいかがだろうか。
もちろんそう考えるのが難しい人もいると思うが、実際そうなのだから仕方がない。

生きづらいのは何もあなただけではないし、社会がそうさせているに過ぎない。そして案外、「社会」っていうのは何の信ぴょう性もないただの流行に過ぎなかったりもするのだ。

そんな無責任な社会に自分の幸福を捧げるのは止めて、もっと自分本位に生きてみてもいいのではないだろうか。